はじめに
自然栽培では、肥料を施さず、農薬も使わず、自然に近い環境で野菜を育てます。
でも、その方法は、マニュアル化が難しいという側面があります。
(なので、ここでの栽培法も、あくまでも一例であって参考程度にしてください)
慣行栽培のように、手順に沿って行えば、うまくいくというものではありません。
それは、自然栽培と慣行栽培では、その根底にある考え方が、まったく異なるからです。
その違いをつかむことができれば、自然栽培への理解が進みます。
小手先の技術にとらわれるのではなく、考え方から入るのが近道なのです。
そこで、ここでは、自然栽培の考え方に焦点を当てて深掘りしていきたいと思います。
問題に対するアプローチ
問題に対するアプローチには、対症療法と根本療法とがあります。
対症療法では、悪い部分を探し出して、それを排除するという方法で問題解決を図ります。
たとえば、病気に対して、お薬や注射などで症状を鎮めたり、手術で悪い部分を切り取ったりします。
同様に、野菜が病気になったら殺菌剤をかけたり、害虫がいたら殺虫剤をかけたりするのです。
結果(症状)そのものを取り除くので即効性があります。
でも、これで原因が解消されたわけではないので一時しのぎにしかなりません。
根本療法では、文字通り、根本的な問題解決を目指します。
そのため、実現には時間を要します。(即効性はありません)
問題の本質に迫って、根本原因を解消することが目標になります。
外からの力でねじ伏せるのではなく、主体の力を引き出すように誘導します。
症状や患部(悪い部分)は、あくまでもチェックポイントであって処置の対象にはしません。
原因を取り除くことによって、結果である症状は自然に消失していくことになります。
自然栽培では、この根本療法の視点で捉え、問題に対処していくことになるのです。
これを、子供の教育を例にすると...
対症療法では、苦手な科目を重点的に勉強させるという方法で成績アップを図ります。
それによって、目先の試験の点数を上げることはできます。
でも、長期的に見ると、勉強嫌いになってしまいます。
根本療法では、好きな科目をさらに伸ばすように導きます。
優点を伸ばすことで、支配的側面である知的好奇心を養っていくのです。
この方法では、目先の試験の点数アップは望めないかもしれません。
でも、長い目で見れば、勉強好きになって、総合的な成績アップにつながるのです。
別の例として、身体の問題について考えてみましょう。
たとえば、胃潰瘍です。
胃潰瘍とは、胃に潰瘍ができる病気で、対症療法では胃の病気と捉えます。
そして、直接的に、胃を対象に処置を行います。
胃酸の分泌を抑えるお薬を処方したり、手術で悪い部分を切り取ったりです。
このような捉え方は、単純明快で、患者さんも容易に理解できます。
根本療法の観点からすると、潰瘍は表面化した結果にすぎません。
したがって、胃に対して、直接的な処置は行いません。
根本的な解決のためには、原因を突き止めなければなりませんので、それを全力で探っていくことになります。
では、なぜ、胃に潰瘍ができるのかですが...
それは、胃が、からっぽの状態で胃液が分泌されてしまうからです。
それによって、自らの消化酵素で潰瘍を作ることになります。
なぜ、無秩序に胃液が分泌されてしまうのかというと...
胃に対する指令がチグハグになって胃が混乱してしまうからです。
その指令を出しているのは自律神経です。
なぜ、自律神経が乱れるかというと...
椎骨の位置がずれるからです。
それによって、椎間孔が変形し、自律神経を圧迫してしまいます。
その椎骨の位置を決めているのは、筋肉や靭帯です。
それらの筋平衡がアンバランスになっているということになります。
それを制御しているのが錐体外路中枢です。
その錐体外路中枢には、プログラムが内蔵されています。
そのプログラム癖こそが胃潰瘍の根因ということになります。
その錐体外路中枢は、脳の各部位に散在し、それぞれに特性を持っています。
その特性を活かすことで、そのプログラムを正すことができます。
それによって、筋平衡が正常化し、全ての症状が消失することになります。
根本療法では、このように、特性(良い点)を最大限に活かすことで問題解決を図っていきます。
これは、身体(プログラム)の癖治しですから、自らで取り組んでいくしかありません。
誰か(お医者さんなど)に頼ったり、お薬に頼ったりでは、根本解決には至りません。
それに、成果が得られるまでに時間を要します。(大衆のニーズに合わない)
でも、根本的に問題を解決していくには、自らで地道にやっていくしかないのです。
私たちは、このような根本療法的アプローチが不得手です。
それは、私たちは、目先の現象(問題)にとらわれるようになっているからです。
目先の問題を、一つ一つ解決していけば、いつかは根本解決に至ると錯覚しているのです。
でも、対症療法の延長線上には、根本解決はありません。
なので、これらを、はっきり峻別し、使い分けていくことが必要になってくるのです。
キクイムシに学ぶ根本療法の捉え方
問題を根本的に解決するには、正しいモノの見方・捉え方ができなければなりません。
では、何を持って正しいとするのか?です。
ここでは、その辺のところを深掘りしていきたいと思います。
まずは、ナラ枯れの問題を例に考えてみることにしましょう。
ナラ枯れとは、キクイムシがナラの木々を枯らしてしまう現象のことです。
一般的には、下記のような解説がなされています。
ナラ枯れは、ナラ・シイ・カシなどのブナ科樹木が枯れる森林被害です。枯れる原因は、ナラ菌のまん延によるものであり、そのナラ菌を媒介する昆虫(カシノナガキクイムシ)によって、次々と伝染していきます。放置しても自然に被害は終息しないため、貴重な地域の巨樹・巨木や広葉樹資源の保全という観点からも、被害拡大防止に努めることがとても重要です。ナラ枯れを引き起こすカシナガは、森林病害虫等防除法で駆除すべき害虫として指定されています。
私たちは、このような解説を読むと、頭の中でストーリーを描きます。
ナラの木が、林の破壊者であるキクイムシ・ナラ菌軍団に犯されているというストーリーです。
そして、悪のキクイムシ・ナラ菌軍団を駆除して全滅させることが正義となるわけです。
それは、脳(観念)が創り出した幻想(形式的な世界)にすぎません。
でも、人は、それを、客観的な現実での出来事だと思い込んでしまうのです。
このような捉え方のことを、ここでは、形式論理(直接論理)と表現しています。
形式論理とは、いわば教科書の世界であって、事実とは大きく乖離しているのです。
では、根本療法の視点で見ると、どのようなストーリーになるのでしょうか?
かつての里山の林は、間伐などの手入れがされていました。
でも、最近では、放置され木々が密集しています。
木々が密集すると、地面に光が届かなくなります。
それでは、下草も生えることができません。
保水能力もなくなり、砂漠化に向かいます。
生物も生きていけなくなります。
自然からすると、これは、危機的状況です。
そこで、キクイムシの出番です。
キクイムシは、老いたナラの木に穴を開けます。
次世代を担う若い木には穴を開けません。
そして、協力者であるナラ菌を伝染させて木を枯れさせます。
土に還す作業は、センチュウや様々な虫、微生物などが手伝ってくれます。
ところが、人からすると、キクイムシは、ナラの木を枯らす害虫です。
したがって、被害を見つけると、キクイムシやナラ菌を抹殺するという方法がとられます。
そんなことをされると、周りの生き物たちも死んでしまいます。
ナラの木と共生している菌類が死んでしまうと若い木も育たなくなります。
自然の林では、下草~低木~高木、昆虫や微生物など、様々な生き物で埋め尽くされています。
すべて、その土地に選ばれた生き物たちです。
みんな、調和のもとに、自らの仕事をたんたんとこなしています。
そんな中では、特定の虫が大量に生まれるというようなことはありません。
でも、そのバランスが崩されると、均衡を図らなければなりません。
その均衡を図るために、それぞれの役目を担った生き物たちが生まれてくるわけです。
間伐など、林の手入れができないのは人の都合です。
それに、業を煮やしたキクイムシやナラ菌たちが、総出で間伐してくれているのです。
そこに、新たに、その土地に根ざした植物や木々が生まれてきます。
それによって、森や林が守られ、山崩れや鉄砲水が防がれているわけです。
これは、畑でも同じです。
畑には、病原菌も害虫もいっぱい住んでいます。
でも、健全に育った野菜は、食害に遭ったり、病気になったりしません。
健康な葉は、細胞の配列も緻密で揃っています。
また、細胞を保護するロウ質の皮膜もしっかりしています。
抗酸化物質(ビタミンCやファイトケミカル)なども豊富です。
害虫は、そんな葉っぱを食べても消化できないので寄りつきません。
害虫が好んで食べるのは、老化した葉や日照不足などで徒長した葉です。
また、過剰な肥料分を吸収して肥満化した(窒素過多になっ)た葉です。
つまり、全てが、自然の法則のままに運動変化し発展消滅しているのです。
私たちの目に映っているのは、事象のほんの一部分にすぎません。
その一部分にとらわれていたのでは、ありのままの状況を把握できません。
それでは、当然のこと、正しい(事実に沿った)判断は下せません。
実際の問題は、見えないところで、様々な要素が関連し合っているのです。
それらを、まるごと捉えた上で、掘り下げていかなければ、問題の本質は見えてきません。
そして、対策の焦点を見定めた上で、判断し対応していく必要があるのです。
このような捉え方のことを、ここでは、弁証法論理と表現しています。
形式論理では、このような事実に沿った把握はできません。
なので、このような説(弁証法論理)は、トンデモ説(非科学的、宗教的)に見えてしまうのです。
つまり、弁証法的な視点を養わない限り、事実の把握はできないわけです。
形式論理のほうは、単純明快で理解しやすく、広く受け入れられることになります。
そして、多数派に支持され、エビデンスに基づいた定説となって一般に定着していくのです。
巷には、こうしたエビデンスを背景に、科学を装った詐欺商法で、あふれかえっています。
自らを守るためにも、弁証法的な視点を養っておく必要があるのです。
考え方(心)の癖直し
私たちは、物事を、つい善悪二元論で捉えがちです。
益虫(善玉)は味方、害虫(悪玉)は敵、というように...
メディアでも、盛んに善悪のレッテルを貼って敵対関係をあおっています。
でも、自然には敵も味方もありません。
もし、害虫や病原菌の存在がなくなると自然の秩序も壊れ維持できなくなります。
自然界は、諸行無常でスクラップ&ビルドによって刻々と生まれ変わっているのです。
健康な野菜が、生き生きとみずみずしいのも新陳代謝しているからです。
成長のためには、葉っぱなど古い組織は壊して廃棄する必要があるのです。
その手助けをしているのが害虫ということになります。
野菜にとって、お荷物になるのが老化した葉です。
老化した葉は、光合成の能力も落ちて役に立ちません。
野菜は、そういった葉をすみやかに処分したいのです。
そして、効率的にエネルギーを創り出せる若い葉を育てていきたいのです。
でも、葉っぱを、そのまま地面に落としたのでは硬い繊維はなかなか分解されません。
下草の上に落とされたのでは、その下草は日光を遮られ枯れてしまいます。
そこで、害虫の出番です。
害虫のお腹の中には、硬い葉の繊維を分解してくれる腸内細菌がいます。
食べた硬い葉も、腸内細菌が柔らかいフンにしてくれるのです。
それが、養分となって、その地を肥やします。
このように、次世代の命が育まれていくための環境が整えられているのです。
また、施肥による土壌汚染を清浄化するのも害虫たちの役目です。
畑には、人間の都合で大量の肥料が撒かれます。
土壌の生き物たちにとっては大迷惑です。
絶妙なバランスのもとに成立している生態系の調和が崩れてしまいます。
多くの生命も失われてしまいます。
すみやかに、元の状態に戻さなければなりません。
そこで、野菜は、吸収した肥料分を葉っぱに貯えます。
(水に溶けた窒素分は、物理的に植物の体内に吸収される仕組みになっています)
そして、害虫に食べられやすいように軟弱徒長します。
徒長した葉や窒素過多の葉、老化した葉などは、害虫たちの好物です。
(抗酸化物質の豊富な新芽や若い葉は苦手です)
そして、移動できる害虫たちに、過剰な肥料分を運び出してもらうのです。
葉っぱを食べた害虫たちは、どこかで亡骸となり、その地を肥やすことになります。
(イモムシもいずれ成虫になり飛んでいきます)
このように、自然は、全体の均衡が保たれるように仕組まれているのです。
土壌の汚染が、さらにひどい状況だと、そもそも野菜は生育できません。
たとえば、たっぷりの栄養を与えようと、多くの肥料を撒いた場合などです。
それでは、野菜は、根腐れして枯れてしまいます。
その土地に適さない(適地適作でない)野菜を栽培した場合も同様です。
そういう場合は、野菜の免疫力も落ちてカビ菌にも感染します。
そして、早晩、解体され土に還されることになるのです。
こうしたはたらきは、何も土壌に限ったことではありません。
川が汚れると、汚れ(有機物)を食べるカゲロウなどの幼虫が増えます。
そして、それらが成虫になって川から有機物を運び出します。
海に流れ出した窒素やリンは、プランクトンが食べて、それを貝が食べます。
そして、その貝を鳥が食べて海から運び出すのです。
この自然界(現象界)は、多種多様なものが寄り集まって成立している多様性の世界です。
全ての存在は、自然の一部であり、自然の法則のままに忠実に使命を果たしているだけなのです。
このように、自然界は、多様性の世界でありながら調和によって成り立っています。
ところが、私たちには、そうは見えません。
私たちの目には、自然界は弱肉強食の闘争の世界と映ってしまうのです。
そのため、野菜の葉っぱにイモムシを見つけると...
「葉っぱを食い荒らす害虫は敵だから駆除しよう」となるのです。
このような思いは、反射的に意識に浮かんできます。
いくら思考をめぐらせたところで、他の答えを導き出すことはできません。
思いというのは、私たちの自覚できない意識に深く刻み込まれているからです。
つまり、意識に登る前段階の脳の回路で、すでに答えが決められているのです。
それは、主観や思い込み、憶測、希望的観測と言われているものです。
まず、それを意識化できなければ修正のしようがありません。
なので、頭に浮かんだ答えは、いったん棚上げにします。
そして、その答えが本当にそうなのか?と疑います。
その上で、事実に沿っているかを検証していくしかないわけです。
何をやっても、うまくいくという人は、それができる人です。
思い通りの結果を得るには、事実(現実の世界)と想定(頭の中の世界)との食い違いを無くす必要があるのです。
形式論理からの脱却を目指す
今の科学(教育)では、客観的と言いながらも、現象面しか対象にしません。
現象面というのは、目に映る観測可能な部分です。
それは、表層に現れている結果にすぎません。
たとえ、顕微鏡やMRIなど、最先端の機器を使ったところで見えているのは結果です。
いくら細分化し、分析したところで、本質にはたどり着けません。
肝心の本質(主要矛盾)のほう(判断する上での重要なカギ)は、抽象面に隠されています。
でも、そっち(主要側面である抽象面)は、科学の対象から切り捨てられているのです。
したがって、今の自然科学の手法では、真相や真実を見抜くことはできません。
これは、哲学の欠如であり、現代科学が形式論理的科学(疑似科学)と揶揄されるゆえんです。
弁証法論理の観点から見ると、現代の科学は唯物弁証法に堕落した疑似科学となるわけです。
現象面(結果)しか把握できないのですから、そこからは、対症療法しか生まれてきません。
したがって、今の科学の手法では、いくら進歩したところで、問題を根本解決には導けません。
また、いくら医学が発達したとしても、お薬や注射など外力によってでは健康は創れません。
AIも同様に、開発者の頭脳に根本療法の概念が無い限り、そのアルゴリズムも生まれてきません。
このような手法では、副作用が新たな課題(副作用)を生むという悪循環に陥るだけです。
その結果、社会の問題は、ますます複雑化していき混迷を極めることになるのです。
また、そんな科学に基づいた教育では抽象的思考力は培われません。
そのため、安直な(形式論理・直接論理の)答えしか導き出せなくなります。
物事の展開を想像したり、相手の立場に立ったりもできません。
また、刹那的な(あと先を考えない)行動をとってしまうことにもなります。
そして、テレビや新聞などメディアの情報を鵜呑みにするロボットと化してしまうのです。
そんな考え方を基に築かれてきたこの社会は、今、持続すら危ぶまれる状態に陥っています。
そんな中で、社会をリードすべき教育が、こんな状態では未来もままなりません。
いち早く、科学教育を次のステージへ押し上げていかなければなりません。
どういったステージかというと...
物事を弁証法的に(ありのままに)捉え、総合科学的にアプローチできる能力の育成です。
そして、社会に、根本療法を目指すという風潮を芽生えさせていかなければなりません。
「内因と外因」の関係を把握する
根本療法を考えるにあたって、とても大事な概念のひとつに「内因と外因」があります。
これは、「因と縁」、または、「主体と環境(条件)」と言い換えることができます。
この世の中のあらゆる事象は、この「内因と外因」の法則に支配されているのです。
たとえば、野菜の種を植えるとします。
そして、水分や温度などの条件を整えてあげます。
しばらくすると、芽が出てきます。
芽が出てくるのは、その種の中に生命があるからです。
死んだ種を植えて、いくら条件を整えたところで芽は出てきません。
その種の中にある生命が、主体であって内因(因)です。
そして、水分や温度などの条件が外因(縁)ということになります。
私たち(外因)が、野菜(内因)に対してできることは限られています。
それは、適度な条件を整えてあげるということだけです。
この「内因と外因」の法則を、簡単に整理すると...
外因によって内因を創り出すことはできません。
外因によって内因の力を高めることはできません。
でも、衰退・破壊方向へは支配的にはたらきます。
外因が作用できるのは、内因のはたらきを介してだけです。
外因の作用に対して、内因には内部応力が発生し、その一部が残留します。
外因による作用の効果は、局部的で一時的です。(全体・時相でみると混乱を招きます)
作用の効果に比例して弊害(副作用)も大きくなります。
外因の作用が効果を現す場合は、内因が持つ本来の機能は低下します。
このような原則は、自分の立場に当てはめてみるとよく分かります。
自分自身が内因(主体)であって、自分の外側の出来事が外因(環境)です。
お薬や注射、食事などの外からのはたらきかけも外因です。
たとえば、食事をすると、体内に必要な栄養素が取り込まれて活用されます。
栄養失調で体調を崩しているとすると、栄養を摂ることで元気を取り戻します。
でも、栄養が十分に足りているのに、より健康になろうと栄養を摂っても無駄です。
かえって、身体を壊すことにもなりかねません。
このように、全てが内因のはたらきによって制御され健康が保たれているのです。
お薬を飲んだ場合も同じです。
そのお薬の成分を吸収し、必要な箇所に運び作用するのは体内のはたらきによってです。
その際、お薬によって痛みを抑えるなど、症状を緩和するということはできます。
神経を麻痺させ感覚を鈍らせたり、内臓の活動を抑えたりは、外からの力でもできるのです。
でも、お薬は、健康を創るとか病気を治すという方向には作用できません。
病気は、内因の力である自然治癒力がはたらいて初めて治癒に向かうのです。
そんなお薬も飲み過ぎると自然治癒力を損なって、かえって病状を悪化させてしまいます。
また、致死量を超える薬物を飲んだら、たちまちにして死んでしまいます。
つまり、外因によって内因の力を高めることはできませんが、衰退・破壊方向へは支配的にはたらくのです。
外因の作用が効果を現す場合は、内因が持つ本来の機能は低下するというのは...
たとえば、アレルギーなどで使用するステロイド剤を考えてみれば分かりやすいと思います。
体内で作られるステロイドホルモンなどの物質を外から補うような場合は、身体に直接的に作用するので効果も上がります。
その変わり、身体が持つ本来の機能(副腎皮質の機能)は低下することになります。
外からの施しに頼って、本来はたらくべき機能が怠けて衰えていくわけです。
野菜の栽培で考えても同じです。
野菜は、肥料分が少ない土壌では根の張りが良くなり、細菌との共生関係が築かれます。
(野菜は、土壌に住む細菌とお互いに必要な栄養素をやり取りし助け合っています)
でも、外から肥料が施されると、野菜は、その肥料分に依存してしまいます。
そのため、根の張りが悪くなり細菌との共生関係も壊れてしまうのです。
外から施すと、本来(内因)の力(自らで栄養素を取り込む力)は衰えてしまうわけです。
肉類などを食べるのをやめて、菜食を続けると蛋白質不足に陥ります。
そんな場合は、腸内の窒素固定菌が増えて腸内でアミノ酸を生成してくれるようになります。
内因がはたらいて、不足した分を補おうという力が湧き出てくるわけです。
形式論理では、足したら増え、引いたら減るというように、算数通りに考えます。
でも、弁証法的に捉えると(「内因と外因」の法則では)、その逆になるのです。
私たちは、強い思い込みを持っています。
それは、直接的な外力(条件)によって、主体をより良く変えることができるというものです。
でも、物事を発展方向に導く原動力は内因にしかありません。
ところが、外因の力は衰退・破壊方向へは支配的にはたらくのです。
つまり、外因によって内因を破壊することは容易だということです。
内因をねじ伏せ、成長の芽を摘むということは日常的に行われています。
それは、良いつもりで行われていることなので始末が悪いのです。
根本療法においては、このような「因と縁」の法則が基本原則になります。
したがって、外因に頼らず、内在する力を最大限に引き出すということが目標になるのです。
自らの立ち位置を明確に
対症療法によって築き上げられてきたこの物質文明は、今、崩壊の危機にあります。
そんな中で進むべき道を指し示してくれているのが自然栽培の思想です。
そこで、ここからは、自然栽培の思想(実践哲学)に迫っていきたいと思います。
でも、まずは、自らを知らなければなりません。
そして、現在の立ち位置を明確にしておく必要があります。
人類は、今、どの段階にあって、どこに向かおうとしているのかです。
それが曖昧では、右往左往するばかりで、リードすべき方向性も見えてきません。
私たちは、今まで、何の疑念を抱くこともなく教育を受けてきました。
そして、テレビや新聞などのメディアの言うことを信じてきました。
そんな中で、植え付けられてきたのが、近代西欧哲学の考え方です。
これは、「対立(矛盾)を否定し抹消することによって進歩発展が図れるとする考え方」です。
(このような考え方を、ここでは、ヒムサ思想と表現しています)
スコラ哲学(神学)へのアンチテーゼとして確立した思想で、人間中心主義の傲慢な哲学(唯物弁証法)といえるものです。
15世紀頃から、こうした考え方のもとに植民地主義が生み出されました。
そして、侵略の歴史が動いていくことになります。
植民地主義は、コロンブスのアメリカ先住民の虐殺に端を発し、世界中に広がっていきました。
そして、産業革命により強大な力を手にした支配層は、世界を植民地化していったのでした。
大東亜戦争を機に、1946年のフィリピンの独立を皮切りに、各国は独立解放されていきました。
形の上では独立しましたが、その後、教育や政治などへの傀儡や経済的従属化による陰の支配(新植民地主義)へと移行していきました。
それが、今では、グローバリズムという形になって、社会を蝕みつつあるのです。
農業も同様に、グローバリゼーションの波に飲み込まれていきます。
利益追求のための大規模農業に、資金や政治力が投下されていきます。
搾取など人的犠牲や環境破壊、未来の資源の先食いなどもいとわずにです。
そんな中で、環境や地域住民に配慮した環境保全型農業は駆逐されていきます。
そのため、生態系が破壊され、生物多様性が失われ、農地も疲弊し砂漠化していきます。
そのうち、肥料資源も枯渇します。
そして、格差拡大、食料の奪い合い...というように、破たんへと向かうことになるのです。
私たちは、先進の科学技術をもとに、高度な文明を築き上げてきたつもりでした。
でも、その文明は、人間中心主義の傲慢な哲学(唯物弁証法)によって築かれたものでした。
そして、偶像(現象)崇拝に陥り、「今だけ、金だけ、自分だけ」の世界を創り上げたのです。
真理(実在)を探求することを放棄した科学は、形式論理的科学(疑似科学)に堕落しました。
私たちの思考力も、唯物弁証法に基づいた教育(プラグマティズム)によって奪われてきました。
ロボット化した人々は、疑似科学を絶対化し、対症療法に突き進んできました。
そして、薬剤や注射、医療機器などの偶像を盲信し、自らを損なうことになっているのです。
この現象世界は、弁証法的法則(客観的運動法則)によって支配されています。
このような、ヒムサな行為(対立の抹消による発展)は、弁証法的法則に反する行為です。
いうなれば、人類は、神(カム)に対する反逆を続けてきたわけです。
したがって、そんな手段によって築かれてきた文明は持続できません。
こうした中で、私たちは、進むべき道を示していかなければなりません。
500年にわたる人類史的実験も終焉を迎え、今、その総括の時期に来ています。
文明の没落という形で、その根底にある近代西欧哲学の誤りが明らかになってきたのです。
そして、分断工作に操られ、闘争を繰り返す時代は終わらせなければなりません。
右か左か、リベラルか保守か、A主義は善でB主義は悪などの概念は、対立構造ではありません。
これらは、分断工作のための形式的な枠組みにすぎません。
あるのは、真理(アヒムサ)か非真理(ヒムサ)かであって、弁証法的法則に沿っているか否かです。
このように、時代の大きな流れで見ていくことで、その本質が見えてきます。
その把握の上で、自らの立ち位置を明確にし、何を為すべきか、為し得ることができるのか、です。
自然栽培とアヒムサ思想
自然栽培の根底にあるのは、近代西欧哲学とは対局にあるアヒムサ思想です。
そこに、自然栽培の大きな意味・意義があるのです。
これは、「対立(矛盾)を肯定し止揚することによって進歩発展を図っていくという考え方」です。
アヒムサとは、元は「いのち(カム)」の光り輝く様相を表した言葉で、博愛を意味します。
(直訳:アヒムサ=サンスクリット語で不殺生/ヒムサ=殺生、ア=否定語)
この思想は、シュメール文明に始まり、インダス文明からアーリア文明へ移行し、ベーダやウパニシャッドを通して示されてきました。
(各地の遺跡で発見されている「卍」は、太陽が燃え盛り全てを活かす様相を象徴している)
それが、釈迦や龍樹(空の思想)を経て結晶したのが、マハトマガンディーのサチャグラハでした。
手段というのは、その根底にある思想から生み出されてきます。
したがって、自然栽培では、慣行農法とは真逆になるのです。
自然栽培では、肥料や農薬など、外からのはたらきかけに頼ることはしません。
害虫や雑草などを、敵対的に捉え排除するのではなく、あらゆる存在の意義や特性を正しく見抜くことから始まります。
そして、優点を活かし合い、新たな価値を創造することで、問題解決を図っていきます。
なぜならば、それが、自然の法則(弁証法的法則)に沿った方法であるからです。
この自然界は、多種多様なものが寄り集まって成立している多様性の世界です。
そんな中では、あらゆる関係(局面)において対立(矛盾)が生じてきます。
なぜ、そんな仕組みになっているのか、というと...
それは、対立(矛盾)の止揚によって、新たな価値が生まれるようにです。
生物が、性差によって子どもが生まれ、進化していくように...
ところが、ヒムサな手段(対立の抹消)では、創造の道そのものを断つことになってしまいます。
これでは、法則に反することになり、運動変化のベクトルが衰退方向に向かってしまいます。
したがって、対立の抹消によって成し得たものは、持続できず、自壊することになるのです。
このように、この現象世界は、弁証法的法則(客観的運動法則)によって支配されています。
弁証法的法則は、カム(真理)より、もたらされた秩序であり、そこから逃れることはできません。
その方向性は、真理か非真理かによって決まります。
(善か悪かは、立場や観点、時代などにより、コロコロ変わるもので、普遍的な基準にはならない)
「いのち」を光輝かす方向に導くこと(アヒムサ)が真理であり、
「いのち」を翳らす方向に導くこと(ヒムサ)が非真理ということになります。
これから、振り子の揺り戻しが起きて、時代は大きく変化していきます。
唯物弁証法(ヒムサ思想)によって構築されてきた物質文明は、没落に向かっていきます。
今に生きる私たちは、それを、建て直していくという責務を負っているのです。
その手段は、アヒムサでなければならないわけです。
唯物弁証法の世界観からの脱却
唯物弁証法では、物質が根源的な存在であり、内在する「いのち」を認めません。
全ての存在は、唯(ただの)物(モノ)であり、目に見える現象世界が全てなのです。
そんな世界観では、目先の利益や物質的な豊かさを追求していくしかありません。
そして、偶像(現象)崇拝に陥り、「今だけ、金だけ、自分だけ」の世界線を生きることになるのです。
でも、私たちには、このような思想(唯物弁証法)はなじみません。
日本には、古来から「八百万の神(やおよろずのかみ)」の思想があります。
私たちは、自己に神が具現化した存在なのです。
人だけではなく、動物や草木、昆虫や細菌、山や川、土や石ころなど万物も同様にです。
私たちは、唯(ただの)物(モノ)ではなく、「いのち」こそが本体であり真我です。
その「いのち」のことを神と表現しているのです。
でも、神というと、私たちは、個性を持っている神様(現象神)のことを想像します。
これでは、真意が伝わらず、誤解を招くことになります。
和語では、神(カミ)の語源はカムイです。(カムイが縮まってカミ)
その「カムイ」というのは、「カム」から来ています。
「カム」というのは、絶対的存在のことであり、真理や実在(の「いのち」)を意味します。
「カムイ」の「イ」というのは一部分という意味です。
つまり、「カムイ」は、「カム」の一部であり、同じ絶対的存在ということになります。
(また、ここでいう「いのち」とは、「カムイ」と同じ意味で使っています)
ウパニシャッドでいうと「梵我一如」です。(ウパニシャッドは、古代インドの哲学書の総称)
梵(ブラーフマン)はカムのことであり、我(アートマン)は「いのち(カムイ)」のことです。
絶対的存在であるカム(真理)と、私たちの「いのち(カムイ)」は、一如だということです。
つまり、私たちの主体は、「いのち」であって、それは、カム(絶対的存在)なのです。
この「いのち(カムイ)」は、生命(生物学的な)のことではありません。
生命は、この現象世界を認識する主体であって、現象(生死がある)です。
私たちが、誕生した際に、この世界を相対的に認識できるよう、カムから与えられるのです。
本来の自分とは、カムに生命が貼り付いた存在、ということができます。
なので、もし、私たちの生命が尽きたら、「南無阿弥陀仏(ナモー・アミターユス)」です。
アミターユス(阿弥陀仏)とは、「永遠(とこしえ)のいのち」という意味です。
ナモー(南無)とは、帰一(きいつ)という意味です。
つまり、現象としての生命が尽きたら、「永遠のいのち(カム)」に帰りひとつになるわけです。
カムは、端的にいうと、運動し変化すること(時間)もない完全無欠の絶対的存在です。
龍樹の表現(般若心経)では、「不生不滅・不垢不浄・不増不減」の存在ということになります。
不生不滅(生ずるのでもなく、滅するのでもない)
不垢不浄(汚れているのでもなく、清らかでもない)
不増不減(増えるのでもなく、減るのでもない)
私たちは、この現象世界を脳を介して(概念で)認識しています。
そのため、対象を相対的にしか捉えられません。
したがって、完全無欠の絶対的存在と言われても、理解できません。
これを、へたに突き詰めていくと、観念論の世界に落ち込むことになってしまいます。
また、逆に、思考停止に陥ると、唯物弁証法(ただモノ)の世界に落ち込んでしまいます。
このような本質を知るには、まずは、現象と実在(真理・カム)の峻別(実在認識)が必須です。
仏教では、これらを峻別し、実在(真理・カム)を見抜くことを「正見(しょうけん)」と言います。
逆に、現象面しか認識できないことを「無明(むみょう)」と言います。
「無明」に陥ると、偶像(現象)崇拝につながり、決定的な過ちを犯すことにもなります。
それは、現象世界の中に、絶対神(唯一神や創造神)を創造してしまうということです。
この現象世界に、絶対を持ち込むことは許されません。
仏教(バラモン)においても、ブラーフマンが人格化(現象神化)されるという過ちを犯しました。
それに対して、釈迦は、無神論(現象神は無いということ)をとなえました。
そして、「法」(ダルマ)という概念を用い宗教改革を行った(カム・実在に復活させた)のでした。
思想というのは、意図的に創作され、思想的武器(洗脳の手段)として利用されてきました。
簡単にいうと、支配層が大衆を奴隷化(愚民化・弱体化)し、意のままに操るための手段です。
また、人種や地域を分断し弱体化させるための強力な武器になっているのです。
私たちは、気づかないうちに、ヒムサ思想を植え付けられ、霊性が封印されてきました。
でも、物質文明の崩壊と共に、唯物的な世界観はひっくり返ることになります。
そして、目覚めた人々は、自らの頭で考えるようになります。
考えるとは、「カムカヘル(カムに帰る)」です。
考える(カムに帰る)ことで、「いのち」に目が向き、自らを知ることで、封印が解かれます。
そして、自他一体の真我に目覚め、霊性を呼び覚ますことができるのです。
それによって、この現象世界における実践力は、自然(じねん)に湧き出してきます。
それを、実践で証明したのが、マハトマガンディーでした。
マハトマガンディーのサチャグラハ運動
マハトマガンディーは、アヒムサの力を、実践(サチャグラハ運動)によって証明しました。
英国は、当時、人種や宗教、地域などを分断し、互いに争わせることで、インドを統治していました。
マハトマガンディーは、1914年、第一次大戦後、インドの独立運動(反英運動)を主宰しました。
その際の手段として採用したのがアヒムサ(アヒンサー)でした。
マハトマガンディーは、インドの独立と発展を目指して、生涯をかけてサチャグラハの実践・指導を行ってきました。(1869年に生まれ、1948年1月30日凶弾に倒れる)
民衆と共に、権力に屈することなく、非暴力(正確には非暴の力)で不服従を貫き、インドを英国の支配から解放し、独立に導いたのでした。(非暴=アヒムサ、博愛、活かすなどの意味)
マハトマガンディーは、「ガーンディー聖書」で次のように説いています。
真理(Satya)なる言葉はサット(sat)から来たのである。サットは、存在更に実在を意味する。
そもそも物の本質を究明すれば、世の中には何物も存在しないのである。
存在するのはただ真理だけである。
しかして我々は唯一神の存在を認めるのであるから、結局sat即ち真理は最も重要なる神の別名である。
更に進んで、「神は真理である」というよりも、「真理が神である」というのが一層正しいのである。
(中略)
真理が人間活動の中心であり、生命である。
修行者がこの信仰に達すれぱ、何ら努力せずして、自然に人生上一切の規範を見出し、且つこれに従うものである。
真理を解せずば、いかなる原則も規範も認識出来ないのである。
真理(カム)というのは、絶対的存在ですので五感で捉えることはできません。
無でも有でもなく、無限の絶対的存在ですから認識のしようがないのです。
もし、これを、認識しようとしたら、途端に個性を持ってしまいます。
現象世界に引きずり下ろし、偶像化(現象化)することになるのです。
その偶像を絶対化することは、真理(カム)に対する反逆であり許されません。
この現象世界(相対的な世界)では、見る立場や観点によって見え方は異なります。
客観的な絶対というのは存在することができません。
なので、その人(宗派・国)にとっては絶対でも、他の人(宗派・国)からはそうは見えません。
「こっちが本物で、そっちは偽物だ」、「いや違う、そっちが偽物で、こっちが本物だ」ということになってしまいます。
それが、ゆずれない原則となって宗教戦争が勃発し、文明は滅びへと向かうのです。
マハトマガンディーは、真理こそが人間活動の中心であり、それを理解しない限り、いかなる原則をも認識できないとしています。
そして、「(あなたが信じる)神は真理である」というよりも、「(あなたが目指す)真理が神(という名)である」というのが一層正しいのである、と説いているのです。<()は加筆>
かみ砕いて解釈すると、
神は、様々な人々によって命名されてきたので、多くの神々が存在します。
でも、それらは、真理に対する命名であって、名前は違っても真理のことを指しているのです。
なので、あなたが信仰している神だけが真理というわけではありません。
皆が目指すのは、同じ真理であって、敵対することはやめて、お互い団結しましょう。
(戦うべきは、非真理であるローラット法であり植民地主義なのですから)
というような意味になるのでしょう。
それによって、イスラム、ヒンドゥー教、シク教などの間に橋を架け、調和を図ったのでした。
マハトマガンディーは、真理との共振によって偉大な実践力を獲得しました。
それが、全インドの民衆に共振していきました。
民衆が、真理を自己に具現化することで、権力に屈することなく非暴力・不服従を貫いたのです。
そして、拳銃の弾一発も撃つことなしに、インドを英国の支配から解放し独立に導いたのでした。
マハトマガンディーは、「アヒムサは、人間の持つ最も強い力であるが、この力は想像もできないほど目立たないものである」と言っています。
それは(アヒムサの力は)、特殊な力ではなく、誰もが持つ普遍的な力です。
特殊な修行や訓練によって得られるのではなく、普遍性の追求によって得られるものです。
努力によって成し遂げよう(ねばならない)という偽善の力ではありません。
「せずばおれない」という内から湧き出る力です。
それは、サチャ(真理)グラハ(把持)により、「いのち」から発現するのです。
その力によって、私たちは、この現象世界に生まれた意味に気づかされます。
そして、真理(神)が自他一体、すなわち、愛であることを自証する行動が生まれてくるのです。
サチャグラハとは、「真理を把持する」または「真理に把持される」という意味があります。
すなわち、真理に対して共振を願うことで、真理の側から共振がはかられることになります。
それにより、「いのち」の輝き(真我)を取り戻し、生命(現象)の陰り(偽我)が消失するのです。
そして、実在の「いのち」の自覚が生まれ、無畏(むい)となり、実践力が湧き出すわけです。
でも、私たちは、真理という言葉を耳にすると、すぐにカルトと結びつけてしまいます。
そして、拒否反応を起こし思考停止に陥ってしまいます。
また、唯物弁証法のプロパガンダによって真理はおおい隠されてきました。
そのため、私たち自らが、有限の物質的存在としての自覚しか持てなくなっているのです。
いわば、プログラム(教育やプロパガンダ)通りに動くロボットと化しているわけです。
それでは、真理と共振することはできません。
でも、これから時代は大きく変わっていきます。
ヒムサ思想による発展を目指す時代は終焉を迎えつつあります。
私たちは、本来の霊性を取り戻し、真の主体性を確立する時にきているのです。
そして、新たな時代をリードしていかなければなりません。
そのカギは、サチャグラハに隠されているのです。