なぜクモが怖いのか
ここでは、実際に農園に入って考えてみることにしましょう。
農園で目につくのはクモ類です。
色鮮やかで、目を引く模様のクモたちが、たくさんいます。
あの放射状の巣を、短時間で作る様は、まさに神業です。
子供は、そんなクモたちとも、すぐに仲良しになります。
それは、周りの大人も、クモたちと仲良しだからです。
農園に集う人たちは、基本的に自然に対して肯定的です。
農園は、クモだけでなく、カエルやヘビ・昆虫など、様々な生き物たちの楽園です。
私たちは、そこへお邪魔させていただくわけです。
そして、農園は、それを、快く受け入れてくれます。
そんな中で、肯定感も自然に育まれていきます。
クモ自体に、綺麗も汚いも、怖いも、あるわけでありません。
ただ、クモとしての存在があるだけです。
どう捉えるかは自由です。
では、クモが怖いとは、どういうことなのでしょう。
クモが怖い人にとっては...
クモは、客観的に見て怖いものだと思っています。
つまり、私たちは、そういったモノが、意識の外側に、客観的に実在するものだと思い込んでいるわけです。
では、なぜ、そういう思いが浮かんでくるのかです。
それは、その人の脳に、「クモ=怖い」という回路が刻み込まれているからにすぎません。
なぜ、そんな回路が刻み込まれてしまったのかというと...
たまたま、クモを怖がっている人を見かけただけなのかも知れません。
やっかいなのが、その回路は、自覚できない意識に刻み込まれてしまうということです。
それは、無意識的に思ってしまうのですから「考え方のクセ」ということができます。
したがって、いきなり、クモを好きになろうとしても、それは無理です。
単に、クモが怖いというだけなら、実害はありません。
でも、どうせなら、脳には、「肯定的なクセ」を刻みたいわけです。
それによって、物事を活かし、新たな価値を創造する力が育まれていきます。
そして、充足感を得て、幸せを感じる感性も養われていきます。
つまり、「考え方のクセ」が、その人の人生を決定づけるわけです。
イモムシに学ぶ「考え方のクセ」
こうした「考え方のクセ」は、私たちの思考力も奪ってしまいます。
次に、具体的に考えていきたいと思います。
今度は、オクラの葉っぱを食べているイモムシを見つけたと仮定します。
こういう場合...
たいへんだ!何とかしなければ...と対策を考えます。
そして、熟慮し、最良の方法を探っていきます。
すると、答えが浮かんできます。
その際、本人は、それが、熟慮した結果のベストな答えだと思っています。
でも、こうした答えは、思索の過程を経て導き出されたものではありません。
その答えは、意識にのぼる前に、すでに決まっています。
したがって、いくら熟慮に熟慮を重ねても、他の答えは出てきません。
たとえ、助言があったとしても、自分の主観を擁護する考えしか浮かんでこないのです。
イモムシを見つけたら、たいていの人の頭に浮かんでくるのは...
葉っぱを食べるイモムシは、野菜にとっては敵、
被害が広がる前に、抹殺しなければ...という考えです。
なぜならば、私たちの脳に、そういう回路が刻み込まれているからです。
「イモムシ→悪い虫→殺す」というような...
こうした言葉を、私たちは、子供の頃から数知れず耳にしてきました。
そのため、私たちの脳に強く刻み込まれているのです。
いわゆるマインドコントロールです。
したがって、いくら熟慮を重ねたところで、他の答えは導き出せません。
これは、どんな問題に対する場合でも同じです。
私たちの脳には、こうした観念が無数に刻み込まれているのですから...
言うなれば、思い込みです。
当人は、こうした観念に操られていることにさえ気づけません。
そのため、漠然と、主観のままに、判断し行動し続けることになります。
それでは、正しい(事実に沿った)判断にはなりません。
したがって、想定外だったとなってしまうわけです。
でも、こうした理屈が分かると、クセを自覚できるようになります。
クセを自覚できれば、修正も可能です。
自分で、意識して、思い込みを棚上げにできるからです。
そして、客観的に見直すことができれば、事実も見えてきます。
その繰り返しで、新たなクセ(正しい回路)が形成されていくわけです。
これは、最初のうちは、意識して行うことになるのですが...
それが、訓練を積むことによって、直感力としてはたらくようになります。
それは、俗にいうヒラメキなどの(主観的)直感力ではありません。
正しい思考の過程を経た事実に沿った直感力です。
正しい直感力を身につけるには、自らで脳の回路を正していくしかないわけです。
イモムシに学ぶ「全体を把握する」
客観的に見るというのは、主観を捨てるということに他なりません。
そのためには、まず、思い込みを棚上げしなければなりません。
そもそも、イモムシは悪い虫なのか?ということです。
では、実際に、イモムシによる食害について考えてみましょう。
事実には、必ず、両面があります。
その両面とも把握しなければ、事実の把握とはいえません。
(A)イモムシに葉っぱを食べられた
(B)それ以外の葉っぱは食べられていない
こういった場合、普通、(A)だけしか見えなくなります。
人は、際だった現象面にとらわれてしまうものです。
現象面とは、欠点や症状・結果など、目立つ側面です。
ほとんどの人は、この段階でつまづいてしまいます。
つまり、(A)に問題解決のカギを求めてしまうわけです。
でも、本質というのは、(B)のほうに隠されています。
(B)のほうの食べられない葉というのは、健全な葉です。
健全な葉は、細胞の配列も緻密で揃っています。
また、それを保護するロウ質の皮膜もしっかりしています。
したがって、イモムシは、健全な葉を食べることはありません。
でも、それだけでは、まだ、不十分です。
今まで見てきたのは、「オクラ」と「イモムシ」の2者の関係だけです。
そして、時間の経過(歴史的認識)がありません。
つまり、時空のほんの一断面しか捉えられていないことになります。
それでは、事実とは言えません。
事実は、全体的・総合的・時相的な(時間のつながりの)上に成り立っています。
葉っぱというのは、どれも同じように見えます。
でも、葉っぱにも若い葉、働きざかりの葉、老いた葉があります。
若い葉は、光合成で作った炭水化物は自分の生長のために使います、
働きざかりの葉は、作った炭水化物を、若い葉や根にも送ってあげます。
老いた葉は、光合成する力も衰えています。
その老いた葉が日光を遮ってしまうと、下の葉が光合成できません。
それでは、炭水化物が作れず、若い葉を育てていけません。
また、下草にも日光が届きません。
老いた葉は、速やかに処分したいわけです。
でも、そのまま地面に落としたのでは、硬い繊維はなかなか分解されません。
そこで、イモムシの出番です。
イモムシのお腹の中には、硬い葉の繊維を分解してくれる腸内細菌がいます。
それで、硬い葉も柔らかいフンにしてくれます。
そのフンを、今度は、地面や地中にいる生き物たちが分解してくれるのです。
それが、次世代の養分になります。
こうした関係は、私たちの身体で考えると分かりやすいと思います。
私たちの身体は、様々な因子の集合体です。
そういった、様々な因子の協調によって生命活動を維持しています。
骨ひとつとっても同じです。
骨は堅いため、一度形成されると一生そのままのように思われがちです。
でも、実際は、破骨細胞が絶えず古い骨を溶かし続けています。
そこを、骨芽細胞が、新たな骨で修復していきます。
つまり、スクラップ&ビルドで、若々しく弾力ある骨を維持しているわけです。
では、破骨細胞は、骨にとって敵なのかというと...
そんなことはありません。
破骨細胞が無いと、骨はすぐに老化してしまいます。
骨の再建のために、溶かしているのですから。
野菜(植物)とイモムシとの関係も、これと同じです。
イモムシが、破骨細胞の役割を担っているということです。
野菜にとって、お荷物になるのが老化した葉です。
または、日陰になった葉など活躍できない葉です。
そういった葉は、光合成ができません。
野菜にとっては、そういった葉をすみやかに処理したいわけです。
そして、若い葉を育てたいのです。
イモムシは、そのための手助けをしていることになります。
したがって、イモムシが食べるのは役に立たない葉です。
新芽や若い葉は食べません。
つまり、イモムシは、勝手気ままに食害しているわけではないのです。
そんな振る舞いをすると、植物は絶滅し、全ての生き物も絶滅してしまいます。
今の科学(教育)では、物事の全体を捉えるという考え方がありません。
現象面を細分化し分析することしかできないわけです。
そのため、全体から本質(支配的要素)をつかむという力が養われません。
つまり、前例の(A)のみを対象にした科学です。
(これを、形式論理的科学という言い方をします)
したがって、生み出される方法論は、対症療法に直結してしまうわけです。
対症療法では、文字通り、症状(欠点・患部・現象面)を対象にします。
悪いところを探し出して、それを排除することで問題解決を図ります。
これは、原因ではなく結果に対する対応です。
したがって、解決できたかに見えても、新たな課題(副作用)が生じてきます。
その課題を抑え込むと、さらなる副作用(課題)が生じてきます。
そして、悪循環に陥って、手に負えなくなってしまうのです。
イモムシに学ぶ「変わる状況」
今まで、全体的に、状況を把握できるよう努めてきましたが...
状況というのは、移り変わっていきます。
したがって、状況に沿った捉え方が必要になります。
今まで見てきたのは、自然な食害です。
写真のオクラは無施肥・無農薬で、自然に近い状態で栽培しているものです。
したがって、イモムシがいるのが当たり前で、何の問題もありません。
そのおかげで、生態系のバランスも整い、オクラの実も健全に育つのです。
でも、そうではない不自然な食害もあります。
それは、環境を乱したことによって起こる食害です。
環境が乱されると、調和が崩れます。
すると、それに対応するための作用がはたらきます。
その代表が、過剰施肥による土壌の破壊です。
土壌には、精妙なバランスのもとに、多くの生き物たちが生活しています。
そこに、大量の肥料が撒かれると、土壌の生き物たちは大混乱です。
すみやかに、元の状態に戻さなければなりません。
そこで、野菜は、吸収した肥料分を葉っぱに貯えます。
(意図的ということではなく物理的な仕組みによって)
つまり、軟弱徒長します。
そして、その葉っぱをイモムシに食べてもらいます。
肥料分を外部に運び出してもらうわけです。
肥料分を食べたイモムシたちは、成虫になって飛んでいきます。
そして、どこかで亡骸となり、そこで栄養となります。
このようにして、自然は、全体の均衡が保たれているわけです。
でも、さらにひどい状況だと、野菜は生きていけません。
免疫力も無くなり、カビ菌も感染し、土に還されることになります。
その土地に適さない野菜も同様に、消滅の運命をたどることになります。
その代わりに、新たな命が芽生えてきます。
自然も、スクラップ&ビルドによる新陳代謝を繰り広げているわけです。
このように、自然は、厳密な秩序のもとに運動変化しているわけですが...
それは、あらゆる因子間で、コミュニケーションが図られているからです。
たとえば、葉っぱは、その表面(ロウ質や毛など)で意思を伝えています。
そして、イモムシは、それを受けて、食べても良い葉だけを食べています。
つまり、お互いメッセージをやり取りしているわけです。
これは、骨と破骨細胞の関係と同じです。
現象面で見ると、オクラとイモムシは、別個の存在に映ります。
でも、客観的には、オクラとイモムシは一心同体ということになります。
キクイムシに学ぶ
こうした自然の仕組みは、農園でのイモムシに限った話ではありません。
ここでは、林に目を移し、「ナラ枯れ」の問題について見ていくことにしましょう。
「ナラ枯れ」とは、キクイムシがナラの木々を枯らしてしまう現象です。
かつての里山の林は、間伐などの手入れがされていました。
でも、最近では、放置され、木々が密集してきました。
木々が密集すると、地面に光が届かなくなります。
それでは、下草も生えることができません。
そして、保水能力もなくなり、栄養も枯渇します。
これでは、生き物も住めなくなります。
自然からすると...
これは、大変な状況です。
このままでは、あらゆるものが死に絶え、自然は破たんに向かっていきます。
そこで、キクイムシの出番です。
キクイムシは、老いたナラの木に穴を開けます。
(次世代を担う若い木には穴を開けません)
そして、協力者であるナラ菌を伝染させて木を枯れさせます。
土に還す作業は、その他の虫や微生物が手伝ってくれます。
ところが、人は、こうした状況を、ありのままに捉えることができません。
さも、キクイムシが、ナラの木を枯らしているように見えてしまうのです。
(形式論理で見ると、そう見えます)
したがって、人は、キクイムシに殺虫剤をかけることになります。
そうすると、周りの生き物にも影響が出てしまいます。
ナラの木に栄養を与えている菌類が死んでしまうと若い木も弱ってしまいます。
自然の林では、下草から低木~高木、昆虫や微生物など、生き物で埋め尽くされています。
すべて、その土地に選ばれた生き物たちです。
そんな中では、特定の虫が大量発生することはありません。
みんな、調和のもとに、ひっそり暮らしています。
そして、たんたんと仕事をこなしています。
でも、そのバランスが崩されると、均衡を図らなければなりません。
その均衡を図るために、それぞれの役目を担った虫たちが登場してくるわけです。
間伐など、林の手入れができないのは人の都合です。
それに、業を煮やしたキクイムシやナラ菌たちが、総出で間伐してくれているのです。
それによって、森や林が守られ、山崩れや鉄砲水が防がれているわけです。
でも、私たちは、なかなか、そんなふうには捉えられません。
木に穴を開けるキクイムシは、どう見ても、悪者にしか見えないのです。
それは、人が勝手に作り上げた「善か悪」かの判断基準を絶対化しているからにすぎません。
今の科学(教育)では、客観的と言いながらも、現象面しか対象にしません。
現象面というのは、目に映る(観測可能な)部分です。
でも、それは、表面に現れている結果にしかすぎません。
本質のほう(判断する上での重要なカギ)は、抽象面に隠されています。
でも、そっちは、科学の対象から切り捨てられてしまっています。
そのため、キクイムシの「心」や「いのち」を見抜けないわけです。
目に見えないモノ(ソフトウェア)は、無いものとされているのですから...
したがって、抽象的思考力も培われません。また、そこからは、対症療法しか生み出せません。
今、社会は、持続すら危ぶまれている状態です。
経済至上主義も崩壊に向かっています。
そんな中で、社会をリードすべき教育が、旧態依然のままでは、未来もままなりません。
いち早く、科学教育も次のステージへ押し上げていかなければなりません。
どういったステージかというと...
ものごとを弁証法的に(ありのままに)捉え、総合科学的にアプローチできる能力の育成です。
そして、社会に、根本療法を指向するという風潮を芽生えさせていかなければなりません。
それによって初めて、人類は、対立の止揚による進歩発展を目指せるのです。
数字(統計)に騙されないために
今の時代、数字は巧みな宣伝文句に利用されています。
人は、そういった形式的なものに弱く、容易に操られてしまいます。
数値化されると、客観性が高いと錯覚してしまうわけです。
そこで、ここでは、数字(統計)について考えてみたいと思います。
数字(統計)にも見える側面と見えない側面があります。
ここでは、見える側面を現象面とします。
見えない側面を抽象面とします。
たとえば、アンケート調査を行って、
「朝食をしっかり食べている生徒ほど成績が良い」という結果が出たとします。
これを、現象面で見ると...
「朝食をしっかり食べている生徒ほど成績が良い」ということは...
「朝食をしっかり食べることで成績が良くなる」ということになります。
しかし、抽象面で見ると...
「朝食を食べている生徒は、全般的に、しつけが行き届いていているのだろう」
「朝食を食べないのは、夜更かししたり、睡眠障害があったりするのだろう」
「体質的に朝から食欲がわかないのだろう」(本当に空腹なら食べるだろう)
「朝から食欲旺盛な生徒は、1時間目から頭の回転が良いのだろう」
など、成績に反映する理由が、様々に推測できるわけです。
そして、「朝食を食べることと、成績の向上とは直結しない」
「食欲も無いのに無理に食べたら身体を壊してしまう」
「朝食を食べない理由があるはず」
「そこには、相関関係(疑似相関)はあっても因果関係はない」
など、様々な結論も出てきます。
こうしたことは、たいていのことに当てはまります。
「肉食を中心にしている人のほうが長寿の割合が高い」という結果が出たとします。
これを、現象面で見ると...
「長生きするには肉食を中心にしなければならない」ということになります。
でも、寿命を決める要因には、数えきれないほど様々なものがあります。
そうした要因の中で、肉食が支配的な要因であるということにはなりません。
また、健康であるからこそ食欲が旺盛で、肉もガツガツ食べることができるといえます。
(「健康である」が原因で、「肉を食べる」が結果です)
人は、身体がアミノ酸(蛋白質)を欲すると、肉が食べたくなります。
(グルタミン酸を欲して肉の味が美味しく感じる)
逆に、野菜が好きな人は、身体が野菜のほうを欲しているといえます。
そういう人は、腸内環境もそれに適したものになっています。
(腸内で、アミノ酸を作り出す窒素固定菌が多くなっている)
そういう人にとっては、肉は身体に合わないということになります。
たとえ、食事を変えたとしても、腸内環境が適応するのに時間も要します。
というように、様々な推測が出てくるわけです。
これは、統計データは、まったく信用できないと言っているわけではありません。
多くの情報を集め、分析することで、全体の傾向をつかむことができます。
そして、そこから、普遍的法則を見いだすことができます。
それによって、個々の体験(特殊性)を万人に押しつけるという過ちを防げるのです。
しかし、それを適用する際は、個々の特殊性を考慮しなければなりません。
自分にとって良かったからといって、それを他人に押しつけることは厳禁です。
逆効果になりかねません。
たとえば、塩分は身体に悪いと思い込んで、節制した人がいたとします。
その人は、塩分不足によって健康を害しました。
そういう人は、塩分を必要な分だけ摂取することで健康を取り戻します。
でも、それで、「塩分は身体に良い」ということにはなりません。
その人にとって良かっただけで、誰にでも当てはまるわけではありません。
もし、塩分が足りている人に、さらに塩分を与えたら、逆に健康を害してしまいます。
つまり、モノやコトなどの条件に、絶対的な力はないということです。
ところが、世間には、特殊な条件で健康が創れるという風潮がまかり通っています。
肝心な主体を、ないがしろにしているわけです。
もし、条件(外因)によって、主体(内因)を健康に導くことができるとしたら...
健康食品の普及や医学の発展で、病人はいなくなります。
でも、そうはなっていません。
むしろ、不健康な人が増えています。
それは、主体(内因)と条件(外因)との間に、厳密な法則がはたらいているからです。